人工知能と自分探し

最近、人工知能とかAIなどというものが、かすまびすしいですよね(注)。将棋や碁でAIに勝てなくなったとか、そのうち人工知能に人類が滅ぼされるとか。よくわからないのは、力自慢の人が10トン車と戦っても勝てないのとかは当たり前で、頭脳でまけるとそんなに問題なんだろうかということです。それだけ知能に重きを置いてるということでしょうか。

それはともかく、人工知能やAIについて注目はしています。環境のありようをもっと深く理解するためや生き物ともっとうまく付き合うために活用できないかなと考えています。その手の本を読んだりもしています。そうすると、今注目されている人工知能(機械学習とかディープラーニングとか)は、勝手に人類を滅ぼしたりするような類のものではなくて、昔ならった(高校くらい?)統計学の延長で、写真とか音声とか数値データにしにくいようなものを分析するための仕組みだったりします。

具体的にどうやってるのかについてはややこしい話になるのですが、その根幹にあるのは、たくさんトライしてみて「最適値」を発見するという作業です。想像してみてください。すり鉢にビー玉を投げ込むと、そのまま底まで転がって行って行ったり来たりしながらそのうち落ち着いたり、くるくる回りながら結局やっぱり底で落ち着くでしょう。統計学では、同じようなことをシミュレーションでやって、どこが「底」すなわち「最適値」なのかを発見するということをします。

もちろんすり鉢みたいなシンプルな形ではあまり意味がないですし、そもそも一回きり位のトライで必ず答えにたどりつきます。なのでシミュレーションをするときは、世の中の複雑な現象をモデル化して、大小さまざま深さもさまざまな「底」がたくさんあるすごい複雑な形をしたスゴイすりばちがあったとして、その全体像をみることができない状態で、ほんとの「底」はどこか?みたいなことをしているのです。スゴイすり鉢はシンプルすり鉢と違って、ビー玉をどう投げ込むかによって必ずしもほんとの底に到達しません。それどころか、シミュレーションの場合どこの「底」にも落ち着かずずっと動き続けたりもします(収束しない状態)。なので、何回もトライ必要があるわけです。

ま、とにかく、こんな仕組みを利用して、物事を判別したり何かを判断したりすることをコンピュータにやってもらうわけです。

それで、ここで話が飛び、かつかなり唐突ですが、昔、「自分探し」というような言葉がはやりましたよね。いろいろ賛否もあったみたいですけども。ただ、この最適値のすり鉢を考えていたら、なんだかこのビー玉って「自分探し」だなとふと思ったわけです。しかも一回一回のトライがそのままひとりひとりの人生そのものですから、笑いごとじゃあありません。さて、わたしがまだ子供だったころ(といっても高校くらいまで)は、よい高校、良い大学へいって大企業に就職して定年まで働くというモデルがよい解だと思われていた。ほんとうに最適値だったのかはわからない(ひとによっても違う)ですが、まあまあ良かった。すり鉢もシンプルだったのかもしれない。だけど、あるとき地殻変動がおきてすり鉢の形が大きく変わっちゃった。どんなすり鉢だかよくわからない。よいモデルは自分自身で探さなくてはならなくなった。

ひとによっては結構最適値に近いところにいたり、にせの「底」にはまっていたり、でも自分の状況を客観的には判断できない。しかもすり鉢の形自体どんどん変わっていく。そういうことなんだなあと。そう考えたからって何かの役に立つわけじゃないんですが。

注: かすまびすしいとはさわがしい、かしましいなどの意。すみません、この言葉をつかってみたかっただけです。

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